車 【まちびと】 新緑が目に眩しい。 峠道の中程、眼前に連なる山の緑は、以前近くの村で毒ガス騒ぎがあったとは とても思えないくらいだった。駐車帯に車を停め、弥子は外に出た。背筋を伸ばし、 深呼吸する。 納車したばかりの車にもたれかかって、空の青で視界を埋めた。 ――― こわいくらい君の言葉が好きで 何度も夢で繰り返してる ――― 唇をついて出るメロディは、つい今しがたもラジオで流れていた曲だった。 どんなアーティストが歌っているのかはよく知らないが、テレビドラマの主題歌に なった曲らしく、今はどんな場所でもこの曲がかかっているといっても過言でないくらい、 よく耳にする。 少し自分の想いと重なった曲を、最初のあたりだけうろ覚えで歌って、口を閉じた。 夢で。 いや、寝ても覚めても。 言葉は、思い出す端から脈絡なくめぐる。 反芻するように、刻み付けるように、何よりその声を忘れないように。 車にもたれた身体を起こして、助手席を覗き込む。ここにネウロが座ったら、やはり 脚でも組んで、外を眺めているだろうか。 車を買おうと思ったのは、半ばは思いつきだった。ある意味願掛けのようなもの かもしれない。 「さっさと帰って来い。バカ魔人」 聞く相手のいない言葉を、それでもいくらか大きな声で口に出す。弥子はもう一度 背筋を伸ばして、運転席に乗り込んだ。 end |