睡 【まどろみ】



 意識が浮上して、まず不思議に思ったのはソファに横になっていることだった。
 視線を上に向ければ、皮手袋とその手が持つハードカバーの本。となれば頭の下に
あるのは、やはりネウロの太腿だ。
 弥子はそっと上に手を伸ばした。
 「私、いつの間に寝ちゃったんだろ」
 「我が輩に触れる前に、まずその涎を拭け。奴隷の分際で主人の膝で惰眠を
貪りおって」
 「いひゃい!いひゃい!そえ、わひゃひのせいじゃな……!うぅ〜……」
 唇を引っ張っていた指が勢いよく外され、弥子は口元を押さえて顔をしかめた。単純な
嫌がらせだが、しっかり痛い。
 「どうせネウロがここに移動させたくせに……!」
 「おや。寝不足だという先生の身を案じてこちらに運んで差し上げたというのに、そんな
ことをおっしゃるなんて、僕は悲しいです」
 助手然とした物言いだが、皮手袋を外したネウロの指は弥子の目の前で刃物のように
変化していく。表情だけ見れば人畜無害な、その泣き顔が恐ろしい。
 「ごめんなさい」
 目を逸らしながらも謝れば、その指はまた元に戻っていった。
 「謝るくらいなら、最初から言わなければよかろう」
 「うっさいな」
 「何か言ったか?」
 「いーえ!」
 小声の反駁にまた指が変化しかけ、弥子は勢いよく首を横に振った。些細なことで過剰に
反応されてはたまらない。……それにしても。

 「おなかすいた」
 今日は宿題を済ませる前に紅茶を飲んだだけだったため、腹の虫はいつもより早く
空腹を訴えている。
 「ふん。夢の中で食べても、腹はふくれんからな。……随分と良い夢だったようだが」
 「……うん」
 良い夢だった。
 ネウロとレストランにいて、テーブルの上に所狭しと並べられた料理を食べていた。
 それも、ふたりで。
 それについて何も疑問に思うことなくデザートまで堪能して、そして、ネウロがひとこと
呟いたのだ。
 そのひとことが無性に嬉しくて、ネウロに飛びついた。抱きとめてくれた彼が手を
伸ばし、梳かすように髪を撫でてくれたのもまた嬉しかった。その後の夢の内容は
あいまいだったが、心の片隅に残った幸せな余韻は確かにその夢がもたらしたものだ。
 今度こそ手を伸ばしてネウロの手に触れる。その手を自分の頬へ引き寄せようとした
ところで、
 「ふぎゃっ」
 弥子は床に落とされた。頬の上に、靴の踵が乗る。
 「こらー!もう、良い夢が台無し!」
 「知ったことか、このミジンコが。我が輩の与り知らぬところで、自分ばかりが良い思いを
したという反省はないのか?」
 「何その言いがかり!」
 頬を押しつぶすかのような靴を跳ね除けて立ち上がると、今度は強く腕を引かれた。
 ネウロの上に倒れ込む形になって慌てて起き上がろうとするも、ふわりと背にまわった
腕が、思いのほか優しい。弥子は一瞬戸惑って動くのを忘れたが、本当にそれは一瞬の
ことだった。
 身体がぎりぎりと締め上げられている。逃げようとするのが無駄な抵抗だと知ってはいるが、
何もしないでいるのは性に合わない。
 「は、離してよ……!」
 言うなり、あっさり腕が離れた。勢い余って体勢を崩し、頭がソファの座面と衝突する。
 頭はソファの上、背中はネウロの膝の上、足はソファから投げ出されている、という状態は
そう長くは続かなかった。
 再び床に落とされ、足蹴にされる。同じように頬に載せられた靴をどかして、弥子は制服の
埃を払いながら立ち上がった。そしてネウロに背を向けると、宿題を再開すべくあかねの
傍の机に戻り、眠る前までそうしていたように椅子に腰掛けた。
 そっと振り向けば、既にネウロは読書に戻っているようだった。自分の髪に手をやって、
弥子は苦笑した。
 手が髪を梳いてくれたのは夢だとしても、背中にまわった腕に感じた感情が錯覚でない
ことを願う自分に。
 いずれにしても、それ以上に願うことはちゃんとある。
 今のまどろみの中で聞いたひとことを、いつか本当に聞けたらいい。
 “満腹だ”という言葉を。



            end


Neuro      Menu


inserted by FC2 system