常 【にちじょう】



 「日常ってなんだろ?」
 「何?どうしたの急に」
 「なんとなく……」
 期間限定のスナック菓子をまた一袋空にして、弥子はぽつりと口にした。
 軽い驚きを伴った叶絵の問いかけに、弥子はこてん、と絨毯に横になりながら答えに
なっていない答えを返す。
 思わず口から零れ落ちた言葉は、弥子自身にもよくわからない。
 ただ、胸がざわついていた。


 合コンで会ったいい感じの相手が映画好きだったから、という理由で、最近の叶絵は
色々な映画を観るのがマイブームになっている。
 今までの休日であればどこかに出掛けることが多かったのだが、この日は昼食になるものと
様々な菓子を買い込んで叶絵の家で映画鑑賞と相成った。古い映画を見ながら二人で
菓子をつまみ、弥子は空き箱・空き袋の山を作る。
 さらに菓子をたいらげつつ映画の感想を話していたところ、弥子の口から出てきたのが
“日常”だった。

 「まあ、あんたの場合は日常が激変したからね」
 「うん、まさか自分が新聞に載るなんて思ってなかったよ」
 学校に行って授業を受けて、放課後には寄り道をして――……、そんななんでもない日々が
ずっと続いていくと思っていた、のだが。

 父親の死から始まった一連の出来事。
 今弥子が持っている肩書きは、女子高生探偵だ。放課後も、休日も、魔人の空腹を満たす
ために事務所に向かう。こうして休日に叶絵と過ごすのも、随分久しぶりだ。
 戻りたいと願った日常とはかけ離れているのに、いつの間にそんな毎日が当たり前に
感じられるようになったのだろう。


 「あ〜、それにしてもっ。二人とも何も言わずに別れちゃって。でもその思い出をずっと大切にして
生きていくのかな〜。切ないけど、ステキ〜」
 叶絵がまた映画の感想を語る。
 王女と新聞記者。たった一日交わった、夢のような日。それぞれの日常に戻ったら、もう会う
機会さえもないかもしれない。お互いに好きなのに、でも言葉には出さずに。
 戻る日常は、本当にそれまでの日常?
 「たった一日の恋、かぁ」
 日常ってなんだろう?
 弥子の思考はそれを繰り返しながら、別の言葉を口に出す。うんうん、と叶絵が頷いた。
 「恋に時間なんて関係ないんだよね。で、楽しいのがずっと続けばいいんだけどさ。なかなか
そうもいかないし、ロクな男がいないし。あ、あの人は別だから!で……」
 叶絵がくるくると表情を変えながら話を続ける。 目の前にある期間限定菓子の箱は
ほとんど空で、身体を起こした弥子が最後の一個を口に入れるのと、叶絵が別の菓子を
開けたのはほとんど同時だった。

 「映画で観るだけならいいけど、やっぱり私は幸せな恋がしたいな〜」
 「そうだね」
 恋をしていることが、一目でわかる叶絵の表情。
 それを見た弥子の胸が、また少しざわついた。







 「遅いぞ、ウジムシ」
 「はいはい、すーみーまーせーんー」
 事務所に着けば、当然のように罵倒が待っている。
 いい加減慣れた弥子が適当に返事をすると、読んでいた雑誌をトロイの上に置き、
ネウロが立ち上がった。
 しまった、また何かされる、と弥子は身構えた。トラップが発動するのか、ネウロ自身が何か
しかけてくるのか。しかし警戒していたことは起こらず、ネウロは弥子の横を通り過ぎる。
 「その身をわきまえん発言に仕置きしたいのはやまやまだが、しばらく前から謎の気配がある。
友人と過ごしたいと言うのを邪魔せずにいてやったのだ。すぐに向かうぞ」
 振り向けば、ネウロは既にドアに手をかけている。
 「……うん」
 弥子もまた事務所の外に出て、ドアに鍵をかけた。
 エレベーターで下に降り、並んで歩道を歩く。

 長身のネウロは歩幅が広い。
 何かに気を取られると、あっという間に距離が空いてしまう。たまに小走りになりつつ
ついて歩き、弥子はふと斜め前のネウロの顔を見上げた。

 (好きだってわかってて離れるのと、見込みがないのに想い続けるのと、どっちが辛いんだろ)

 ふと浮かんだ疑問に、弥子は嘆息した。

 ネウロが好きだ。
 ずっと胸がざわついていたのは。――その想いがあったから。
 たった今自覚した想いは、いつから育っていたのかわからない。だが無意識のうちに
比べていたのだ。映画の中の恋と。

 気づいてしまえば、別の疑問にも答えが浮かぶ。
 探偵としての日常が、それほど時を経ずに弥子の生活に定着したのは、やはりその想いが
あったからだ。種族の違う相手に恋をするのは、どれくらい報われないことなのか心のどこかで
考えながら。


 日常。普段、常日頃、平生。
 変わらないもので、変わっていくもので。
 自覚した想いも、しばらくしたら“日常”のものになっていくだろう。
 それも、きっと遠くないうちに。
 それは思いのほか、悪くないような気がした。


 何が辛いかなど、主観しだいでどうとでも変化する。少なくとも、ネウロが弥子を
逃がしてくれる気は当分なさそうだ。扱いのひどさはともかくとして、側にいられるという
プラスの面に目を向ければいい。

 と、そこまで考えたところで、距離が離れたネウロから声がかかった。弥子は慌てて
ネウロの元に駆け寄る。
 弥子の唇が小さく笑みの形をつくった。




            end


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