睡 【うたたね】



 壁から覗くおさげが、所在無げに揺れている。
 少し前まで同じようにゆらゆらと船を漕いでいた弥子は、問題集とノートを広げたまま
あかねの前で机に伏していた。
 いつもなら弥子がそうなる前にあかねが注意を促すのだが、今日に限ってはそれを
しなかったらしい。訝しげなネウロの視線を感じたのか、あかねはホワイトボードに字を
書き連ねていく。
 『英語の小テストがあったから、昨夜は遅くまで起きていたみたいなので』
 「そうか」
 ネウロは読んでいた本を閉じ、立ち上がった。応接セットのテーブルに本を置くと、
弥子に近づき、彼女を抱えあげる。目を覚ます気配は全くなかった。ソファに腰掛けた
ネウロは、弥子の頭を膝に乗せて読みかけだった本を開いた。
 弥子は一度納まりの良いところを探すように身じろぎしたが、その後は大人しいもので
かすかに寝息をたてるだけだった。


 時計の針は進む。
 弥子はよく眠っている。
 何が楽しいのか笑みを浮かべ、そこで唇が動いた。
 「……いただき、ます……」
 どんな夢を見ているのか、容易に知れた。
 確かに笑顔にもなるだろう。弥子の貪欲なまでの食への欲求は、眠りの中にあっても
いささかも衰えることはないらしい。

 ネウロは片手を本から離した。
 弥子の髪を梳いた後、そのまま頬へと指先を滑らせる。
 ――あたたかい。
 唇に触れ、反対側の頬を軽く引っ張ってみるが、目を覚ます気配は微塵もない。
 それどころか、くすくすと小さな笑い声まで零れ落ちる始末だ。よほど豪勢な食事が
目の前に並んでいるのだろう。

 不意に。
 まだしばらくは寝かせておくつもりでいた判断と、今すぐに揺り起こしてしまいたい
衝動が胸の中でせめぎあった。
 再び髪に触れていた指はその動きを止め、本が閉じられる。ぶつかりあった相反する
思考はそれぞれの勢いを削いで、身体ではなく声帯を動かした。やや大きな声で、
彼女の名前が口をつく。


 弥子は起きなかった。
 ほっとした反面、どこかで残念な思いを持ったのをネウロは自覚した。彼は脈絡のない
自身の思考に軽く眉をひそめつつ、閉じてしまった本を開き直す。弥子の髪に伸びる手は
相変わらずで、それを止めようという考えには、至らなかった。
 魔界生物とは違う感触を指先は伝える。と、弥子の身体が寝返りを打った。この分なら、
もう少しすれば自分が起こさなくとも目を覚ますだろう。
 ネウロは本に意識を戻した。もうしばらく、この時間を続けるのも悪くはない。



            end


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