儚 【ゆくえ】 顔の一部が大きく剥離する。 その感覚すらも、どこか遠い。身体中に走るひび割れからも、絶えず細かい破片が 零れ落ちているはずなのだが。 手の中には、ひとつの頭蓋骨。持ち上げて額を合わせてみるが、その感触も、 やはり遠かった。 砂埃を含んだ風が通り過ぎていく。傾き始めた陽は、いまだ上空に滞ったままの 毒ガスだか何かだかのために大きく歪んでいる。地上の空気も、とても生物が 生きられるものではないのだろうが、それが清浄なものであろうと魔界の瘴気とは 違うため、彼にとってそうたいした問題ではなかった。 淡紅の桜、細波のきらめく海、燃えるような紅葉に、凍て付く雪原。 同じ場所に足を運んでも、それらはもうない。瞼の裏にそれを浮かべ、目を開いて 頭蓋骨を見つめる。 前歯の部分にそっと唇を落とすと、かつての笑い声が聞こえた気がした。 頭蓋骨を胸に抱きこんで、軽く力を込める。それはあっけなく粉になり、同じように 腕が崩れ落ちた。さらさらと地面に落ちたものは、すぐにそれがどちらのものか判別が つかなくなり、砂埃に混じって吹き散らされていく。 ―― 意外にちゃんと俗な基準も持ってんだ…… 地面に突き刺さった天井部分、ほんのわずか痕跡を残しているその場所に凭れ、 彼は残り少ない人類の痕跡に触れる。 ここから彼女を見おろした時間はそう遠くないもののはずだったが、既に世界は 変わり果て、彼が消えれば世界に動くものはなくなるだろう。彼女がいない今、 それも特に感慨をもらたすものではないが。 掠れた声で名を呼んで、返る声を想う。 狭まる視界に幻影を見た。 end |